芙蓉とは?/ レイク
[ 451] 芙蓉グループ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%99%E8%93%89%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
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芙蓉グループ(ふようグループ)とは、旧安田財閥が戦後財閥解体により、再編しできた企業グループである。1964年結成の芙蓉懇談会を本体とする。“芙蓉”の名は、中核だった富士銀行の“富士”の古語読みから。芙蓉のローマ字表記の頭文字を取って「Fグループ」とも呼ばれる。 安田財閥の創始者・安田善次郎は「金融業は金融業に徹するべき」という哲学をもっていたため、三菱・三井・住友のような他の財閥と異なり、重工業や通商には参入しなかった。しかし、経営資源を金融部門に集中することで金融財閥として大成、安田銀行や安田火災、安田生命などの強力な金融企業を育てた。 安田善次郎の死後は、安田銀行も企業育成に乗り出すようになり、浅野財閥、根津財閥、大倉財閥など小規模財閥への融資を行った。また、新興財閥である森コンツェルンや日産コンツェルンとも親密となる。しかし、やはりこれらは融資関係に留まり、直系企業として産業を垂直支配しようとする動きはなかった。 第二次世界大戦後、安田財閥の持株会社であった安田保善社は、GHQによる財閥解体令を待たずして自主的に解散。プロパーの安田銀行幹部は安田家による同族経営と決別し、1948年、安田銀行は富士銀行と改称した。これ以降も戦前の小財閥との関係は続いた。 富士銀行を中心とした企業集団が明確に形成されるのは、1955年以降のことである。経営不安に陥った商社の高島屋飯田(百貨店高島屋の流通部門を分離したもの)の営業譲渡先が模索される中、三井物産なども候補に挙がったが、結果として富士銀行が主導で丸紅との合併話が進んだ。これに伴い、繊維部門偏重だった丸紅は総合商社としての地位を高め、同時にそれまでメインバンクだった住友銀行から富士銀行へと接近した。 これにより、資金の流れを管理する銀行・モノの流れを管理する商社、という戦後高度経済成長の企業集団に必要な2つの要素が揃い、芙蓉グループの基礎が整った。1960年には富士銀行、丸紅、日本鋼管、昭和電工、大成建設など17社によって芙蓉開発(現・芙蓉総合開発)が設立され、共同事業が行われるようになる。1966年に正式に社長会「芙蓉会」が発足し、芙蓉グループが誕生した。 その後も副社長会「芙二会」、総務部長会「芙総会」、企画部長会「芙水会」と各役職ごとの会も設立、また加盟企業従業員の製品相互利用を目的とする「芙蓉懇談会」も設立された。 芙蓉グループの特徴として、歴史的な因縁で結ばれた財閥系グループと異なり、合理性のある、反面ドライな繋がりであることが挙げられる。芙蓉懇談会の発足に際しても、当時の富士銀頭取・岩佐凱實は「歴史的資本的に強く結びついた閉鎖的なものでなく、相互連携のメリットを求め合う友人のような企業の集まりに」と述べている。後に元富士銀頭取・松沢卓二は「他のグループの企業と連携することは一向に差し支えない」と発言している。 グループの総合化を図り、かつての財閥系列以外の企業も積極的にグループに取り込んだ。このため、下記加盟企業にあるように、「融資系列」として親密になったメンバーも多い。 バブル景気崩壊後は、富士銀行の巨額不良債権問題と公的資金注入、商社冬の時代による丸紅の経営不振、大倉商事倒産、主幹事証券会社の山一證券の破綻、傘下のゼネコンが建設不況から低迷するなどから、先のようなドライな性格もあってグループの活動は弱まり、また各業界の再編により離脱するメンバー企業も一部あった。 一番の転機は、富士銀行が2000年9月に第一勧業銀行、日本興業銀行とともに設立した持株会社みずほホールディングス(現・みずほフィナンシャルグループ)のもとで経営統合、みずほフィナンシャルグループを設立し、それにともない芙蓉グループの幹事社的役割を果たしていた富士銀行が、その役割を丸紅、安田生命、安田火災の各社に譲り芙蓉グループ内の一加盟社としての立場になったことにある (安田生命も2004年1月に三菱グループの明治生命保険と合併し明治安田生命保険となり、現在は三菱系色も併せ持つ生命保険会社となり、安田火災も日産火災と合併し損害保険ジャパンとなり芙蓉グループの一員、みずほFGと親密という立場を持ちつつも、独自色を強めている) みずほFG設立以前は、他の企業グループのように、大阪万博、つくば科学博、沖縄海洋博、大阪花博などで芙蓉グループパビリオンを設けグループとしてのPR活動を行ってきたが、愛知万博には出展していない。 またグループ共同提供テレビ番組としてフジテレビ系で「ドキュメント日本人」「満足!迷い旅」(この2つは日曜朝8:30〜9:00で長らく放送。現在この枠は「報道2001」の後半枠。)「感動エクスプレス」(祝祭日を中心に不定期で放送。)などのテレビ番組を提供していたが、現在では提供番組は存在していないなどグループとしての対外活動も以前より低下している。 みずほインベスターズ証券 - 大東証券(富士銀行系)が勧角証券(第一勧銀系)に合併。なお、勧角証券の前身の一つである角丸証券は富士銀行の親密取引先であった。 日清製粉グループ本社 - 正田家のかつての創業事業の一つであり、正田醤油は事実上の兄弟会社にあたる。 オカモト - 旧岡本理研ゴム。派生会社に不二ラテックス(事実上の兄弟会社)があり、倒産した世界長の再建スポンサーでもある アヴァンティスタッフ - 日本キャリエール(旧富士銀行系)と丸紅パーソネル・サポートの2社が2002年1月に合併して誕生した。人材派遣を中心とする人材サービス業。 片倉工業 - 戦前までは三井財閥の影響下に置かれていた。そのため、現在も三井物産が実質的な筆頭株主となっている。 京浜急行電鉄 - 旧大東急より分離。東急に合併される前の京浜電気鉄道は安田財閥・浅野財閥との関係が深く、東武鉄道とも関係が深かった。 ホテル京急 - 京浜急行のホテル事業子会社で、芙蓉グループ複数社も金融機関を中心に資本参加している。 ヤマハ - 静岡銀行や旧第一勧銀の融資系列、終戦直後までは住友財閥の傘下に入っていた。過去に三井金属(三井金属鉱業)子会社名義で、河合楽器製作所の株式を買い占めたことがある 以下は、芙蓉懇談会に正式に名を連ねていないものの、芙蓉グループと歴史的・資本的結びつきのある企業である。 東燃ゼネラル石油 - エクソンモービル系。前身会社の一つ、東燃が芙蓉グループの社長会・芙蓉会に加盟していた。 日本製紙(日本製紙・日本大昭和板紙)- 三井グループでもある。なお、もともと芙蓉グループには前身会社の一つ・山陽国策パルプが参加していた。同社が三井系の十條製紙と合併して成立したのが日本製紙である(但し、芙蓉グループの社長会・芙蓉会には加盟していたものの、旧富士銀行が取引銀行から外れていたため芙蓉懇談会には加盟せず、代わりに日本板紙(後の日本大昭和板紙)が加盟した)。 十條製紙と山陽国策パルプの前身会社である山陽パルプは共に(旧)王子製紙から分離して発足した。この王子製紙は渋沢栄一が創業したが、のちに三井系になった。そして競合する富士製紙を合併したが、この富士製紙の創業者が安田善次郎であった。 フジテレビジョン - クオラスの親会社で、旧富士アドシステムに芙蓉グループと共同で出資していた。また、以前いくつかの番組を芙蓉グループが提供していた。 ほくほくフィナンシャルグループ - 傘下の北陸銀行と北海道銀行で合わせて2位の規模を持つ地方銀行グループである。北陸銀行は旧富士銀行が同行の筆頭株主だった。北海道銀行も旧富士銀行の親密行である。 ヤマトホールディングス・ヤマト運輸 - 富士銀行時代からみずほ銀行がHDの大株主になっている。また、ヤマト運輸の現社長はみずほコーポレート銀行(旧富士銀行)出身の木川眞である。 シャープ - 旧三和銀行系。同系列の社長会である三水会には加盟しているものの、歴史的関係からみどり会には加盟していない。 日産ディーゼル工業 - 旧日産系列だが、現在はスウェーデンのトラックメーカー・ボルボの支援下。元主要株主だった日産自動車とは近年、関係が疎遠になってきている。 この項目「芙蓉グループ」は企業関連の書きかけ項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 経済)。 |
[ 452] 芙蓉部隊 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%83%A8%E9%9A%8A
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芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期において夜襲戦法を用い活躍した大日本帝国海軍第131航空隊所属の3個飛行隊の通称。隊長(飛行長)は美濃部正少佐(最終階級)。 美濃部は1937年海軍兵学校を卒業、水上偵察機のパイロットとなる。1941年結婚、姓を「美濃部」に変更する。開戦と同時に太平洋戦域へ赴任。1942年4月のセイロン沖海戦に参加する。(余談だがこの時かの「撃沈される英海軍軽空母ハーミーズ」の写真は彼が偵察機から撮ったらしい。)1943年にはソロモン諸島方面で活動していた938空(水上機装備)の飛行隊長に就任する。この時期に彼は指揮官として水上偵察機を率い夜間索敵や基地襲撃を敢行。この経験により「夜間飛行に慣れたパイロットによる夜間攻撃」というアイデアを得た。 実際に1944年1月に零式水上偵察機(零式水偵)1機で敵飛行場を攻撃、成功する。これにより上層部は水上機による夜襲部隊の編成を許可、トラック基地で訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われ、夜襲部隊の編成計画は頓挫した。代替の飛行機を得て戦闘316飛行隊(301空所属)の隊長に就任するも部隊の運用方法の相違から上層部と対立、隊長を解任された。 異動先の302空司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアを受け入れ夜襲部隊の編成を許可、ようやく夜襲部隊が編成されることとなる。部隊は零戦と夜間戦闘機月光を装備していた。攻撃法はまず部隊を索敵隊と攻撃隊の2つに分け、敵艦隊の発見後更に攻撃隊を銃撃隊、爆撃隊の2つに分けて発進、航空母艦から艦載機が飛び立つ前に攻撃する、というものだった。1944年7月の初出撃こそ悪天候により損害を出すが、フィリピン方面に進出した同年9月には敵機動艦隊を攻撃、至近弾を与えさらに10月にも攻撃を敢行する。ただし既に旧式化していた「月光」では損害も続出、パイロットも当初の1/3にまでなってしまった。 消耗した部隊の再編成のため静岡県藤枝飛行場に引き上げた部隊は、「零戦」と各地で大量に放置されていた急降下爆撃機「彗星」一二型を集めて訓練を再開した。「彗星」一二型は水冷型のアツタ32型エンジンを用いていたため技術力の劣る日本で整備、運用するには手に余る代物であり、エンジンは問題続出、稼働率も悪かった。そのため、空冷型の金星62型エンジンに換装された「彗星」三三型が量産されると、「彗星」一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし高速で夜間飛行にも問題は無かったため、そこに美濃部少佐は目をつけ、さっそく自らの部隊で運用を開始した。美濃部少佐は、機体と扱いの難しい水冷型アツタ32型エンジン整備のため担当者を製造元の愛知航空機へ派遣するなど「彗星」の整備方法を習熟させ、稼動率を「彗星」80%,「零戦」90%にまで上昇させた。結果、満足に一定の機体を揃える事が出来ない日本の中では(ソロモン、マリアナや台湾沖海戦で大量に飛行機を損失していた)突出した存在になっていた。 また、パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功し、武装でも対地・対空用の仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)や空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した。 1945年1月、戦闘804(彗星一二型),812(彗星一二型),901(彗星一二型、零戦五二型)の3個飛行隊を統合した独立飛行隊の編成が許可された。この部隊の名称には富士山の別名「芙蓉峰」からとった「芙蓉隊」(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。この名称はあくまでも愛称であり、非公式なものであったが、戦果を挙げるにつれ後に公式文書にも使われるほどになった。 1945年3月、沖縄戦が開始された。この戦いに於ける日本軍上層部の航空運用方針はただ1つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。このことは沖縄戦に先立つ2月に美濃部にも知らされたが彼は反対した。また、自分の部隊が「特攻」に使われるのみならず、未熟なパイロットを機上作業練習機「白菊」や94式水上偵察機といった明らかに第一線級ではない飛行機に乗せて「特攻」を行うなどの計画を聞いた美濃部は階級差も省みず並みいる人々に向かって、「ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます!」と言い放った。 そして続けて「夜襲戦法」による通常攻撃の継続を提案した。彼は後の行動からも知れるのだが「特攻」に最初から反対したのではなく、「夜襲戦法」という通常攻撃手段がまだ残されていて、彼の部隊ではそれが可能だという自信から来たものだった。これにより「芙蓉部隊」のみ「特攻」の編成から外されることとなった。 3月30日部隊は鹿児島県鹿屋基地へ進出、彼の自信を裏付けるように「芙蓉部隊」は4月6日の初出撃において輸送船に攻撃を加え仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)を命中させ、日本側全出撃機の中で唯一戦果を報告した。嘉手納飛行場失陥後は攻撃目標を嘉手納飛行場に切り替え、半月でパイロットの1/3を失うも攻撃を継続し続け、多大な損害を与えた。ここに来てようやく部隊の有効性に気づいた上層部は積極的に部隊を支援、これに応えて部隊は4月末の「菊水4号作戦」で主力を務め、アメリカ軍飛行場に損害を与えた。 その後も攻撃は継続するが、アメリカ軍が夜襲部隊への対策としてレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N “ヘルキャット”を配備したため攻撃の継続は困難になり、部隊は5月末に鹿児島県の岩川基地に移動した。 岩川基地は滑走路に昼間のあいだ牛を放牧したり移動式の小屋を設置して牧場に見せかける等の徹底したカモフラージュをしていた為に一度も空襲を受けず、芙蓉部隊は敵機の攻撃による機材の消耗を免れることができた。 因みにこの頃、芙蓉部隊所属の「彗星夜戦(一二戊型)」は同じ夜間戦闘機であるアメリカ軍のP-61 “ブラックウィドー”を斜銃(詳しくは小園安名の「251空司令時代」の項を参照)で撃墜するという、変わった戦果を挙げた。 芙蓉部隊は終戦まで延べ630機を出撃させた。損害は零戦12機、彗星35機、未帰還隊員は76柱であった。 部隊は終戦まで通常攻撃を継続したが、さすがに米軍による九州上陸が噂されるようになると、「これ以上の通常攻撃は無理」として、部隊保有の可動機40余機による「特攻」の演習まで計画されたほどだった(ただし、特攻出撃の際の飛行長は美濃部自身である)。美濃部は、ヒューマニズムの点から特攻を否定したのでは無く、適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのである。よってこれ以上反復攻撃ができない「最後の出撃」に特攻を採用することは美濃部としては合理的選択であった。(そして、その際は美濃部自身が先頭に立つ)。8月15日、終戦。部隊は、一時は厚木基地の徹底抗戦の表明に呼応するような動きを見せるも次第に落ち着きを取り戻し、美濃部の説得もあり平穏に終戦を受け入れた。なおも徹底抗戦を唱える部下に対し美濃部は、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ。」と言って説得した。 そして部下たちには部隊の飛行機を用いて復員することを許可したのだった。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。 |
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