黒田とは?/ レイク
[ 1531] 黒田長政 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
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黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。筑前国福岡藩の初代藩主。 父は豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛、如水)である。関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げた事から、筑前福岡藩52万3000石を与えられ、その初代藩主となった。 永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。天正5年(1577年)から織田信長の人質として、織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城にて過ごした。天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が信長に反旗を翻したとき、父の官兵衛は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで拘束された。この時、信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、村重方に寝返ったと考えて長政を処刑しようとしたが、竹中重治(半兵衛)の機転のおかげで、一命を助けられている。その後、信長から「長」の字を与えられ長政と名乗った。 文禄元年(1592年)から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役にも渡海している。朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。 慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との対立路線から五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を正室に迎えた。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃した。 慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。三成に対する恨みからか、本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった。長政は調略においても西軍の小早川秀秋をはじめとする諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に52万3000石を与えられた。 父・孝高と違って知略の人物ではなく、武勇に優れた勇将であった。但し、関ヶ原における調略を見ても分かる様に、知略が無かった訳ではない。父ほどの知略は無かった、あるいは、父の知略がある意味人智を超えたものだった為地味に見られやすいが、智勇兼備の名将というべきであろう。 秀吉の死後は藤堂高虎に匹敵するかのように、家康に忠実に仕えた。蜂須賀正勝の娘と離縁して家康の養女と結婚し、さらに家康の命令で普請事業に全て従順に従っている。 長政が三成を恨んだのは、かつて父が失脚した一因に、三成との対立があったからだと言われている。しかしこれには後日談があり、関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに、馬を降りて敵軍の将として敬意の年を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったとも言われている。この時、長政は自らの服を三成にかけて手向けの言葉を送ったという。 熟慮断行の気性であったようであり、父如水はそれを優柔不断のように見えたのか長政に「自分はかつて小早川隆景に物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたらしい。長政はその言葉をヒントに後年「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上決断する仕組みを作ったとされる。 関ヶ原後、家康は長政の功労に手をとって喜んだとまで言われている。帰郷してこの事を父如水に話すと、「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手に短刀を持って家康を刺さなかったかと言う意味)と詰問された話がある。 晩年には子の満徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの家訓(御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。また、一時は忠之を廃して長興の後継を考えたとまで言われている。後に忠之の時代に黒田騒動が起こった事を考えると、この長政の心配は当たっていた事になる。 嫉妬深い一面があり、父如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く、如水から大名なみの厚遇を与えられていた後藤又兵衛を追放し、さらに奉公構という措置を取った。これは、長政が又兵衛の功績と、かつて如水に寵愛された事を嫉妬したからだと言われている。 忠之が4歳の袴着式を迎えた時、母里友信は「父上以上の功名を挙げなさい」と言ったという。それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ」と激怒し、友信を殺そうとしたという。ただし、周囲の取り成しで命は助けられた。 |
[ 1532] 黒田博樹 - Wikipedia
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上宮高から専修大学を経て1996年、ドラフト逆指名で広島東洋カープに入団。 1999年、シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。澤崎に遅れること3年、ついにカープの先発ローテに名を連ねる。 2001年より3年連続2ケタ勝利を達成、日本プロ野球を代表する本格派右腕に成長した。当時、同い年の巨人の松井秀喜との互いに相譲らない力と力の真っ向勝負は見るものすべてを魅了し、今なお語り継がれる名勝負となった。特に2002年9月7日、東京ドームでの巨人―広島26回戦、8回2アウト一塁一打逆転という場面での11球勝負はテレビ解説者や当時の山本浩二監督もうなったほどの名勝負。結果はフォークのすっぽ抜けにタイミングが合わず見逃し三振。 2003年にはそれまでのエース・佐々岡真司に代わって開幕投手となる。2003年の前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げた。2003年のアテネオリンピック野球アジア予選、2004年のアテネオリンピックでは野球日本代表中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献した。 2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)には広島から新井貴浩とともに選出され、岩村明憲、福留孝介と共に「無名の注目選手」とされるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。 同年はシーズン前半も不調だったが、7月2日の中日戦からは負け無しの8連勝。7月の月間MVPをチームメイトの栗原健太とダブル受賞した。更に8月の月間MVPも連続受賞し、球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言、広島への強い愛着を伺わせた。しかし、シーズン終盤は右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1S・防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年の赤堀元之(近鉄)以来、セリーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。この年はパリーグの斉藤和巳(ソフトバンク)も防御率1.75と1点台でタイトルを獲得しており、セパ両リーグで1点台でのタイトル獲得は1969年の江夏豊、木樽正明まで遡る。また同年、スピードアップ賞を受賞。これはテンポのよい投球が評価されてのものだった。 2006年にFA権を取得するが、広島に残留。オフ、渡米しブラウン監督の奨めで右肘関節のクリーニング手術(数ヶ月で投球可能となる軽い手術)を行った。 2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、2003年7月6日から2007年6月3日の楽天戦まで13連勝を記録した。2007年7月14日の東京ドームでの巨人戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。ただ、前年のオフの右肘手術の影響なのか、シーズン後半ではクオリティ・スタートすら守れない試合が続く等得意としているはずの夏場で、過去2年の黒田らしい試合を支配する投球が出来なかった。12勝8敗、防御率3.56と、大型契約の初年度としては物足りない成績に終わった。 その姿から物静かな求道者の様に思われがちだが、チームメートである新井貴浩のバッグの中に消火器を入れるという悪戯をするなど、かなりお茶目な性格でもある。 また、ファンサービスには、常に快く応えていて多くのファンから支持されている。ちなみにオリンピック繋がりで、その野球に対する考え方・取り組み方などから、上原浩治からも兄貴分のように慕われていた。 現在のプロ野球を代表する先発完投型の本格派右腕である。完投の多さから「ミスター完投」の異名を持つ。一方で完封数は年に1回程度。9年間に60完投を記録しているが、完封に関しては11回に留まっている。 試合を作っても援護点に恵まれない投手としても有名であり(2006年に限ると同様の投手に小野晋吾(千葉ロッテマリーンズ)、福原忍(阪神)や三浦大輔(横浜)などが挙げられる)、2005年シーズンには互いが完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けてしまうという試合(4月15日対横浜戦、相手投手は三浦)もあった。また、2006年の阪神戦でもわずか2点の援護しかもらえなかった中で、8回1失点で抑えて勝ち投手の権利を得て9回を永川勝浩に託したが、その永川が9回2アウトから矢野輝弘に起死回生の同点本塁打を打たれてしまい勝ち星をふいにしてしまった試合(結果は引き分け)まであった。 野手としての守備力も松坂大輔などに匹敵する評価を受けている。打撃は苦手分野であり、連続無安打の記録を作ったこともある。しかし1999年には甲子園での阪神戦で、満塁で決勝のセーフティバントを成功させたことがある。 父に「巨人にだけは負けてはならない」と言われ続けたこともあってか黒田本人は生来の巨人キラーであり、黒田自身も巨人戦に登板すると「燃える」としている。そのためポスティング移籍を希望していた松坂大輔や井川慶の穴を埋める投手として、西武や阪神が積極的に触手を伸ばす。また、資金力が豊かなソフトバンクが積極的な獲得姿勢を示し、同年FA宣言した小笠原道大中心に動いていたが中日と巨人も意思は示したとされる。 広島球団はこれまで、年俸高騰の理由からFA権を行使しての残留を一切認めておらず(これはかつて同チームの主砲を務めていた金本知憲(現・阪神)本人から相当譲歩したFA残留条件に対しても例外ではなかった)、宣言選手は引き止めないという方針であった。しかし、脆弱な投手陣が下位低迷の大きな原因となっている中で、安定した成績を残している大黒柱の黒田が去る事になれば、チームにとっては死活問題になるため、今回ばかりは黒田が宣言をしても残留交渉に動くということで注目され「5年10億円」契約提案説などが出ていた。 なおこの契約は、4年の契約期間内でも自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。また黒田は「今後も国内他球団の移籍はない」と明言して、国内なら「生涯広島」を宣言した。経営資源に劣る広島球団側にはじわじわと条件を上げつつ説得という選択肢しかなかったとは言え、経営健全化に取り組むチームが増える中でもとかくインフレ的条件の乱れ飛びがちなFA戦線にあって異色の結果となった。 FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での発言(「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」)は各方面に主に好意的な反響を呼んだ。また、2006年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。 2006年シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせてる真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で「我々は共に闘って来た 今までもこれからも・・・ 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」と記されていた。さらに黒田のシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げた。「あのファンの気持ちは大きかった」と黒田も述べていた。この一連のエピソードは2007年7月に『誰がために?黒田博樹物語?』(漫画:吉原基貴、原案協力・取材:戸塚啓)として漫画化され、ヤングアニマル(白泉社)に掲載された。 2007年日本シリーズ終了後の10月18日、FA権を行使する事を明らかにした。MLB球団は以前から黒田をマークしており、特にテキサス・レンジャーズはGMが興味を示した発言をしていた。シアトル・マリナーズも2006年オフ、松坂争奪戦に加わる様に見せて、黒田を水面下で狙っていたと言われている。2007年シーズン終盤に再び黒田のメジャー移籍がスポーツ紙で囁かれ始め、財政難の球団を助けるためポスティング制度による移籍を推測する声もあったが、結果、自分で自由に移籍先を選択できるFA宣言での移籍を選択した。 12月1日、鈴木清明球団本部長へ退団を申し入れ、メジャーリーグのチームへ移籍する事を明らかにした。その一方で記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語っており、将来日本球界に復帰する場合は広島に戻ってくる事も示唆している。 12月15日、ロサンゼルス・ドジャースと3年3,530万ドルで契約を結んだことをAP通信が明らかにした。これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。背番号は18(なお会見場で08番を着けていたがこれは18のユニフォームが間に合わなかったためであり、マイナー契約された日系アメリカ人ロバート・ブースが先に背番号08番を着けた)ドジャースから提示された条件は4年契約だったが、カープに復帰することも視野に入れた黒田は契約を3年に短縮することを球団側に申し出た。選手から契約短縮を申し出るのは異例である。 |
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