富士山とは?/ レイク
[ 303] 富士山 - Wikipedia
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富士山(ふじさん)は静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。 富士山の優美な風貌は、国内のみならず海外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰・富嶽(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。 富士五湖が富士山山麓周辺にあり、キャンプ場や観光名所がある。また、登山道は、富士宮口、須走口、富士吉田(河口湖)口、御殿場口などがある。 地質学上の富士山は典型的な成層火山(コニーデ)であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。日本の地質百選の一つ。 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000メートル弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1?2キロメートルのところにあったと考えられている。 最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500?2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。 東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は先小御岳と名付けられた(詳しくは富士山の噴火史を参照)。 富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。 中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。 噴火の年代が考証できる最も古い記録は、続日本紀に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。 江戸時代に、最も激しい活動を見せたのは宝永四年(1707年)12月16日に発生した大爆発であり、江戸の市街に大量の降灰をもたらした。この記録については、文書、絵図等により多数残されている。 その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。 1990年代初めから、富士山をユネスコの世界遺産に登録しようという運動が行われている。当初は世界遺産のうちの自然遺産への登録が検討されていたが、地元調整がつかず環境管理(特にゴミ問題)が困難なため国は推薦を見送った[2]。現在は文化的景観という観点から世界遺産のうちの文化遺産への登録手続きが進められており、2007年に暫定リストへ登録され、今後国際記念物遺跡会議による調査が行われることとなる。 富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。また、富士山一帯の宗教施設への参拝や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。 富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題[3]、世界遺産登録問題[4]等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。 江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は富士山を題材にとった46点の連作版画『富嶽三十六景』(1831年頃)を描いた。制作当初はその名の通り36点で完結するはずであったが、人気を博したため10点が追加された。なかでも富士山の雄大な姿を描いた作品として『凱風快晴』、『山下白雨』がよく知られており、それぞれ俗に、赤富士・黒富士の名で親しまれている(『富嶽三十六景』には、上記の他にも波の大胆な描写で知られる『神奈川沖浪裏』などの傑作がある)。歌川広重(安藤広重)の『東海道五十三次絵』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。 浮世絵に限らず、日本画全般の題材として「富士見西行」がある。巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。 万葉集には山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ(ぞ)富士の高嶺に雪は降りける」(巻3・318)という富士山を歌った有名な反歌があるが、その次に作者不詳の長歌があり、その一節に「・・燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ・・」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。 都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、大勢の武士を登山させてかぐや姫が時の天皇に贈った不老不死の薬を、天に一番近い山(富士山)の山頂で燃やしたことになっている。それからその山はふじ山(富士山・不死山・不尽山)とよばれるようになったとする命名説話を記している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、古代甲斐が馬産地であることから成立した甲斐の黒駒伝承に、平安時代には聖徳太子が黒駒に乗り富士の上を越えたとする伝承が加わっている。 また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を現している。 中世には近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大学らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品のなかで富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。 太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節、「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家、新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山にまつわる作品を執筆している。直木賞受賞作『強力伝』は富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた作品である。その他新田には、『富士に死す』、『怒る富士』、『芙蓉の人』、『富士山頂』といった作品がある。 『本朝世紀』によると1149年(久安5)に末代(まつだい、富士上人)が山頂に一切経を埋納したと伝えられている。いまも富士山頂出土と伝えられる埋納経が浅間神社に伝わっている。 富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。そのため、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内である。但し、静岡県、山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。 浅間大社の祭神は、記紀神話に登場する女神の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)である。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。 古くは、常陸国風土記に富士山の神と筑波山の神の逸話が記されている。親神が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへいき、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。 平安時代の文学の『更級日記』には、富士山の神が、朝廷の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。 江戸時代になると、富士山の登拜が庶民の間でも広く行なわれるようになった。庶民は富士山への信仰を強くし、特に江戸の各地には富士山を遥拝する富士塚が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた人工の小さな山で、富士山がよく見えるところに作られ、山頂には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。 こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して幕府にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の町触を出すこともしばしばであった。例えば、1774年から1849年に江戸町奉行所は7回の禁制の町触を出している。[5] これらの新宗教は明治期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。現在においても富士山は新たな信仰を生み出す基盤となっており、オウム真理教、法の華三法行が富士山の麓に本部を置いたことがある。 また、日蓮正宗の総本山である大石寺も、富士山の麓である静岡県富士宮市にある。これは、「富士山に本門の戒壇を建立すべきものなり(要旨)」との宗祖・日蓮大聖人の遺命に基づき、大聖人の御入滅後、大聖人の六大弟子僧(いわゆる六老僧)の一人である日向、ならびに、身延の地頭・波木井実長が謗法を犯したことにより身延山を離山(いわゆる身延離山)した日蓮正宗第二祖の日興上人が、南条時光をはじめとする弟子檀那(信徒)らの寄進(御供養)を受けて、1290年に富士山麓の大石ヶ原(「おおいしがはら」と読む。現・富士宮市上条地区)に開山・建立したものである。 富士登山の経験者たちの間では、「富士山に 登らない馬鹿 二度登る馬鹿」という言葉が流布している。これは富士登山の厳しさを表した言葉で、疲労、寒さ、高山病などを一度経験した者は「二度と登りたくない」と思うようである。ご来光を頂上で迎えるため、深夜に出発する登山は体力を消耗しがちで余計に疲労を感じやすい。 一般的には毎年7月1日の山開きから8月26日の山じまいまでである。この期間はほぼ全ての山小屋が営業しているため、登山客が集中する。なお、山小屋の開設期間は実際には、残雪の状態や8月末または9月最初の土・日曜日の日付などにより毎年変更されるため、利用の際は確認が必要である。また、7月上旬は残雪の状態によっては一部の登山ルートが使えないこともある。 9月に入り、特に山じまい後になると営業している山小屋が少なくなり、宿泊・休憩・飲料水・食事・トイレの提供の問題により、登山者は徐々に少なくなる。9月最初の日曜日を過ぎると富士宮口と御殿場口の7合目以上の山小屋及び須走口の多くの山小屋は閉鎖される。河口湖口の山小屋については、近年は、9月上旬まで大多数の山小屋が営業し、9月中旬まで営業するところが増えているが、それでも山頂の山小屋(須走口扱い)が9月には閉鎖されている上に、気温もさらに低下するため、9月の登山は注意が必要である。河口湖口は9月でも登れるのに対して、富士宮口は9月上旬に登山道が閉鎖され、登山するには静岡県富士宮警察署などに登山計画書の提出が必要となる。 河口湖口(六合目で吉田口登山道と合流)、富士宮口、須走口、御殿場口などがある。それぞれの登山口(自動車道の終点)は全て「五合目」あるいは「新五合目」を名乗っているが、各登山口で五合目の標高が全く異なる。下記の所要時間は目安であり、比較的体力のある人を基準としており、登山初心者は1.5倍くらいの時間がかかる。また、渋滞時は2倍近く時間がかかることもあるし、富士登山競走のトップ選手は目安時間の1/4以下の時間で登る。 利点 - 東京方面からアクセスしやすく、バスの本数も多いので最も利用者数が多い。山小屋が多く休憩しやすい。御来光がどの地点でも拝める。 難点 - 最も登山者が多いゆえに最も混雑する登山口でもある。御来光時には八合目から上が渋滞になりやすく、渋滞により御来光時に頂上にたどり着けない人も多い。七合目付近に急な岩場がある。歩行距離が富士宮口や須走口より長い。下山道には山小屋が一軒しかない。下山時、最後に登りがある。マイカー規制の無い時期の週末には道路(富士山有料道路)が富士宮口と同様に大渋滞を起こすことがある。 利点 - 各登山道の中で歩行距離が最も短い。五合目の標高が最も高い。岩場が多いためすべりにくく登りやすい。頂上が富士山最高地点の剣ヶ峰に一番近い。 難点 - 登りと下りが同じ道のため混雑しやすい。岩場が多いため下りでは膝に負担がかかる。登山道や山小屋からでは御来光が拝めない所が多い。南側のため晴れている日は日差しが強い。バスの本数が河口湖口に比べると少ない。新五合目の駐車場の収容力が少なく(約500台)、マイカー規制の無い時期の週末には道路(富士山スカイライン)が大渋滞を起こすことがある。また、駐車場が溢れた時は路側駐車となるが、新五合目から遠く離れた所での駐車を強いられることもある。 利点 - 人が少なく、本八合目で河口湖口と合流するまでは落ち着いて登れる。樹林地帯があり草花を観察できる。下山道に砂走りがある。御来光がどの地点でも拝める。元々登山者が少なかったためマイカー規制がなかったが、登山者急増により平成19年度から社会実験としてマイカー規制が行われることとなった[6]。神奈川方面からアクセスしやすい。 難点 - 新五合目の標高が少し低いので、富士宮口や河口湖口より体力がいる。砂走りは石が多く、御殿場口の大砂走りほどは軽快に下れない。本八合目から上が河口湖口と合流するため、御来光時には渋滞になりやすい。 利点 - 人が非常に少ないので落ち着いて登れる。新五合目の標高が低いので高度に身体を順応しやすい。大砂走りがあり快適に下山できるため、下山道として人気がある。御来光がどの地点でも拝める。 難点 - 新五合目の標高が低いため体力が必要。滑りやすい砂礫の部分が多く登りづらい。景色が単調。山小屋が少なく休憩しにくい。特に新五合目から7合目まで全く山小屋・トイレがない。道がわかりにくいところがあり特に夜間は道に迷いやすい。バスが少なくアクセスしにくい。 山小屋の数 - 7(新五合目2・頂上1含む・営業期間が極端に短い小屋やそのシーズンは全く営業しない小屋もある。なお新五合目の小屋のうち1軒は宿泊できない。) 営業時期 - 7月1日から8月の最終日曜日までが多いが、河口湖口の山小屋は9月中旬までの営業が多い。五合目の山小屋は観光客にも対応するために、営業期間が長い。一部10月半ばまで営業する山小屋もある。 設備 - 北アルプスや尾瀬の山小屋などに比べると、極めて簡素な設備であることが多い。営業期間が極端に短く、かつ夜間に到着し未明に出発する登山者が多いこともあり、本格的な設備が設置できない、あるいはそれほど必要がないことも原因である。多くの小屋は就寝スペースと食事スペース及びトイレ程度の設備しかない。外来用の食堂や専用の売店スペースを持つところもあるが、その数は少なく、談話室や乾燥室を持つところは例外的である。水が極端に不足しているため、登山者用の風呂がないのはもちろんであるが、従業員用の風呂もない小屋が多数である。 営業時間 - 24時間営業のところもあるが、多くの山小屋は宿泊客が就寝中の21時から翌日1時くらいまでは閉めるため、それ以降の到着となる場合は注意が必要である。ただし、山頂の山小屋は19時頃には消灯し、3時頃には起床となることが多い。小屋によっては朝5時くらいまでは売店の営業を行わないところもあり、夜間登山で軽食や売店の利用を考えている場合などは、事前の確認が必要である。御殿場口の山小屋などは朝5時ごろまでは売店の営業を行わない。 商品 - ペットボトル飲料(500円)、ビール(600円)など。他の山に比べ200円程度価格が高い。その他酸素缶や菓子類を扱っているところもある。5合目や山頂の山小屋は記念品の販売に力を入れているほか、木製の金剛杖を扱っている。多くの山小屋では1回200円程度で、木製の金剛杖に登山記念の焼印を押印する。 宿泊 - 予約が基本。他の山の山小屋は全ての宿泊希望者を受け入れるところが多いが、富士山は定員以上は断るところが多い。もちろん営業時間中に到着したうえで余裕がある場合は、予約無しでも宿泊できるが、週末などは注意が必要である。料金は素泊まり一泊5000円〜5500円、2食付で6500円〜7350円が多い。なお、ルートごとに宿泊料金がほぼ統一されており、登山口が同じなら標高に関係なく同一宿泊料金であることが多い。なお、土日は1000円程度上乗せするところもある。寝室は雑魚寝。定員宿泊でも混雑時には1枚の布団で3人が寝る小屋もあるが、1枚の布団に1人だけが定員の小屋もある。夕食はレトルトのカレーが多いが、手作りカレー食べ放題や豚汁食べ放題の小屋もある。朝食は炊き込みご飯やおにぎりなどの弁当やうどんなどの麺類が多いが、ハムエッグなど手の込んだ朝食を出す小屋もある。水が不足しているために、食器は洗浄不要の使い捨てタイプのものが多い。 便所 - 2006年度でおがくず式、カキ殻式、燃焼式などの環境配慮型の便所に全ての山小屋が改築し終えた。以前はほとんど垂れ流しだったが、世界遺産登録問題があってから、環境庁・環境省の指導により改築が進められた。臭気の問題から、小屋から少し離れて建てられていることが多く、深夜や悪天候時の利用は少々面倒である。 2005年の登山者数は約21万人、その約3割が外国人登山者である。近年では減少傾向にあるものの、富士山の登山者数は依然として世界一[要出典]を保っている。 御来光と影富士 - 御来光とは高山で拝む日の出のことである。阿弥陀如来等、仏陀の出現に日の出を例えた表現である。富士山ではこれを目的に登山する人が多く、日の出直前の頂上付近は渋滞で動かなくなることがある。もちろん山小屋の前や登山道の途中でご来光を迎える人も多いが、富士宮口登山道の多くの地点ではご来光を見ることができない。影富士とは富士山自身の影が日没前や日の出の直後に、太陽の反対側の雲海や地表に投影することである。多くの登山道からは日没時の影富士を見ることができる。山頂からは日の出直後の影富士を見ることができる地点がある。 高山病 - 高度が増すと気圧の低下から、頭痛・めまい・疲労感・呼吸の促迫・心悸亢進などの症状が現れる。また、山小屋に宿泊した場合はそれに伴う睡眠障害により、翌日の行動に影響が出る場合もある。富士山では八合目付近から高山病症状を訴える人が増え始めるが、人によってはもっと低い場所で高山病の症状を訴える場合もある。根本的な治療は下山するほかない。 登山証明 - 富士山頂郵便局では、登山証明書と富士山登頂証の2種類を販売している。なお、富士山頂郵便局で投函された郵便物には基本的には風景印が押印される。 金剛杖と焼印 - 近年は軽量な金属製のストックで登山する人が増えているが、富士山では昔ながらの木製の金剛杖で登山する人が多い。この金剛杖には日章旗や旭日旗などをつけて販売されることも多いほか、各山小屋では記念の焼印を有料で行っている。また、山頂の2つの神社やその本宮である富士宮市の富士山本宮浅間大社では、金剛杖への刻印を有料で行っている。 携帯電話 - 登山シーズン中は、NTTドコモ、au、ソフトバンクモバイル、全ての携帯電話キャリアが5合目〜山頂で通話やメールが使える。山頂の火口側など、麓が見えない場所の一部では電波が極めて弱く、圏外になることがある。山小屋ではコンセントの数は限られており、コンセントの借用はまず認められないためコンセントでの充電は行えない。夜間や長時間不使用時は電源をオフにするなどの対策が必要である。 物資の運搬 - 5合目〜山頂の物資の輸送はブルドーザーにより行われている。河口湖口ではブルドーザー道は下山道としても利用されている。 箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。夏は避暑地としても有名である。 富士五湖は東京から近いうえに、湖に投影する富士山の姿が「逆さ富士」として日本銀行券にもその姿が採用されているほどで、大規模な遊園地なども立地しており、富士山有料道路の基地ともなっている。冬は凍結した湖の上での釣りが楽しめることもある。 火山噴火予知連絡会(気象庁) - 富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。 富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当) - 噴火時の広域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められている。 富士直轄砂防事業(国土交通省) - 大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。 日本最高峰の富士山で気象観測すれば台風の予報に役立つとしてかなり早い時期から富士山での気象観測が検討された。 明治13年(1880年)からときおり富士山での気象観測が行われていたが、昭和7年(1932年)より富士山臨時測候所が開設され、通年測候が行われた。観測結果は超短波無線機で気象庁に送られた。昭和11年(1936年)に日本最高峰の剣ヶ峯に測候所を移転して、常設の測候所となった。これは当時世界最高所の常設気象観測所である。昭和39年(1964年)9月10日にレーダーが設置された。この富士山レーダードームは富士山頂のシンボルとして登山者にも親しまれた。ちなみに建設は「夏季の短期間にしか行えない」「火口から吹き上がる風を読むのが難しい」などの理由から困難を極め、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」でも紹介されたほか、気象庁職員在職時代に富士山レーダーの建設の建設責任者として深くかかわった小説家・新田次郎の小説「富士山頂」でも、建設の経緯が詳しく描かれている。 その後気象衛星の発達により山頂からのレーダー観測は必要性を失い、レーダー観測は1999年11月1日に廃止、測候所は2004年9月30日に無人化された(実際は悪天候のため10月1日に無人化)。現在は無人で気温・湿度・気圧の観測が続けられている。廃止された気象レーダードームは、富士吉田市の富士山レーダードーム館(道の駅富士吉田内)に展示されている。 富士山は、見る場所・角度・季節・時間によって富士山の表情は非常に変化する。この項目では代表的な富士山の姿を掲載する。 夏の朝、露出した山肌が朝焼けによって赤くなった姿をいう。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残している。 富士山が、非常に水面の穏やかな湖面に写り、逆さの富士山が綺麗にみえる姿をいう。D五千円券の裏の図案に使用された。 富士山の頂上より太陽が昇った時もしくは頂上に沈む時、富士山の頂上が光る姿をいう。田貫湖や山中湖がスポットである(年2回)。 富士山の頂上に傘をかぶったような雲が乗ることがある。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。 富士山が日本を代表する名峰であることから、各地に「富士」の付く地名が多数存在する。富士山の麓として静岡県に富士郡、富士市・富士宮市、山梨県に富士吉田市・富士河口湖町があるほか、よくあるものとして富士が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。海外に移住した日本人たちも、自分たちの住むところの近くの山を地名をつけて「○○富士」と呼ぶこともある。 少なくとも、314座を超える数の、郷土富士(富士と名の付く山)がある。ここでは、この一部を紹介する。他の山については郷土富士内の一覧を参照のこと。 「富士山のように日本を代表する存在になる」、「富士山がきれいに見える土地で創業・営業」、などの理由で名づけられている。 富士山の山頂八合目以上の登山道、測候所などを除く385万平方メートルの土地の所有権は、富士山本宮浅間大社にある。 羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。 また、『竹取物語』の最後の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた帝が、家臣に命じて不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で焼くという描写があるが、最後の記述は、その不老不死の薬を焼いた山のことを、「以来、その山のことを、富士山と呼ぶようになった」(要旨)というものとなっている。 これは日本最高峰の並ぶものの無い「不二」の山という意味とされる。その後、鎌倉時代以降に表記が転じて「富士」となった。これは「士が富む」として武士好みの表記であったという。 近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏端に鎮座する火の神の老婆を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説などがある。 ^ 富士山有料道路マイカー通行規制(富士山NET - 山梨日々新聞社)(静岡県側は当初からお盆前後に集中実施、山梨県側は当初は観光客の利便に配慮し分散実施とし、後に静岡県側と同様に集中実施とした) ^ 富士電機とその関連会社の富士通の社名は、古河電気工業とドイツ・ジーメンス社が合弁会社を作るとき、古河の「ふ」とジーメンスの「じ」を掛け合わせたもので、直接富士山から取られたわけではない。しかし漢字は富士山から取っている。 富士山情報(富士宮市のホームページ)-富士登山の歴史・富士山雑話など、興味深い資料が掲載されている。 |